存在の解体新書「無」と「実存」の記録

2025/12/31 2:50  

枠にはめられそうになる恐怖/枠に対しての異常な拒否反応

 私が違いを真ん中に置く対話を求めるのに対し、相手は共感や同調といった安心、あるいは蔑みや慰めを敷く共同体であることを強いる。私にとって理解という枠組みは思考を停止させるものであるが、相手は理解という枠組みこそ共感共有で安心安全であり唯一である。
 私が求めるのは適度な距離、わからないことを真ん中に置くための手段。安心や理解を欲しない、好き嫌いもなく善悪もない。無駄な喧嘩も言い合いも意味がない、思考回路の違いを認識できなければ同じことを繰り返す。だから相手との距離を測るための一時的な枠組みをみる。距離を取るということは相手をきちんと見ることが必要、それは態度や仕草が自然と立ち表されること、「他者としての認識」これが全ての前提。

 ここ二ヶ月、だいぶ自分の思考パターン、特性と向き合ってきた。次に進むためにここに一旦仮止めする。後々見返したときにわらえるように、惑わないように、記録を残す。


自分とAIの対話記録や自分が書いた最近の記事をソースに、NotebookLMに何個か書かせました。これはそれをClaudeで統合した記事です。ここに一旦の納得としておきます




存在の解体新書:
ASD・アレキシサイミア・シゾイドが織りなす
「無」と「実存」の記録


1. 存在の基底:動作と停止の「どちらも無」

 存在のあり方は、極めてシンプルに定義される。「もとめられればやる、もとめられなければやらない。どちらも無」という境地だ。

 求められて動くことは、他者との関わりで学習した「パターンの再生」に過ぎない。一方で、求められなければ何も行わないが、その停止状態に確固たる核があるわけでもない。動作している時も、停止している時も、そこには何者でもない「無」が広がっている。

 かつて、この構造は「自分への裏切り」や虚無感として意識されることもあった。涙がこぼれ、言葉では「寂しい」と言いながら、脳内では「それがなんだ?」と冷淡に観察する解離。自己と言葉の乖離による虚無の正体。しかし、この一見矛盾した特性――**ASD、アレキシサイミア、シゾイド**――が奇跡的に噛み合うことで、今日まで生き延びてこれた事実がある。


2. 生存戦略:特性の奇跡的な噛み合いと「呪い」としての矯正装置

本来なら社会不適応に陥りかねない特性の組み合わせが、母親から与えられた「みんな同じなんだよ」という呪文――それは「呪い」でもあり「救い」でもあった――によって、強力な「矯正装置」へと昇華された。


シゾイド的防衛と自己完結性

「関わること自体に興味がない」という**シゾイド的特性**は、他者との差異による違和感や衝突を未然に防ぐ防衛膜として機能した。独りを好み、自己完結しているため、他者がいない状態では「問い」が発生せず、特性としての困難が表面化しにくい。他者からの攻撃や否定に対しても「その人はそう思った、私はそう思わない」という冷めた距離を保つことができる。


ASDとアレキシサイミアの補完回路

自分の感情に気づけず、他者の感情も汲み取れない(アレキシサイミア)からこそ、パターン認識(ASD)によってシステムや構造を読むしか術がなかった。この「感情を読まずにシステムを読む」代替回路が、異常に高い推測能力を生んでいる。


「心の中だけは覗けない」という救い

「みんな同じ」という言葉を盾に、覗けない相手の心の中に、観察可能な他者の反応をパズルのように嵌め込んでいくことで、社会生活を維持できるだけの擬似的な共感回路を構築した。この矯正装置があったからこそ、差異による違和感に潰されることなく、希死念慮を抱くことなく生活を維持してこれたのである。



3. 対人態度:距離を取るという「誠実な観測」

「距離を取る」ことは、無関心による放逐ではない。それは、相手を「枠」に閉じ込めず、その存在を尊重するための能動的な態度である。


「枠」への拒絶と「がっかり」

他者から「あなたはこういう人だ」と定義されること――すなわち「枠」にはめられることに対し、本能的な恐怖と激しい拒絶を抱く。それは期待への重圧ではなく、相手が自分を「狭い枠」に収めた瞬間に、その相手の視界の狭さや可能性の欠如に「がっかり(失望)」してしまうからだ。

「理解した」と言われることは、許可なく境界線を越えて踏み込まれる「侵入」であり、後ろに立たれるような本能的な恐怖を呼び起こす。枠に収まることは知的な死であり、偶然を殺す無駄な行為に他ならない。


境界線を守るための解析

相手の思考パターンを解析するのは、相手を理解し支配するためではなく、自身の境界線を侵されない「安全な距離」を正確に測定するためである。**シゾイド的に自己の安寧を守りつつ、ASD的な観察眼で「違い」という偶然を享受する**――これが距離の本質だ。


「違い」を真ん中に置く対話

理想とするのは、共感(同じであることの確認)を強いる共同体的な関係ではなく、**決定的な「違い」をテーブルの真ん中に置き、それを互いに冷静に咀嚼し合える高度な知の交歓**である。この「違いを楽しむ回路」こそが、自分の輪郭を広げていく。距離があるからこそ、自分の想定を上回る「偶然(逸脱)」という知的な喜びが生まれる余地が残る。



4. 詩作(シサク):実存を触る「フォーカシング」

40歳で出会った「シサク」は、単なる趣味ではなく、自己と世界を繋ぎ直す「フォーカシング」のプロセスである。


言葉以前への接触

感情と言葉が直結しないからこそ、言葉になる前の「気配・圧・感覚(フェルトセンス)」に形を与え、自分を直に触る(フォーカシング)ことが可能になった。言葉と言葉以前の感覚が噛み合わないアレキシサイミアの不全感を、詩という迂回路を通じて解消し、自身の言葉をあてがっていく工程。


摩擦の消失と静かな一致

「意味(社会的な正しさ)」というラベルを剥がし、「自己(シゾイドが関心を持たないもの)」を殺し、自身の思考の癖と表現が一致したことで、内面の摩擦が消え、静かな一致――実存としての私が存在する感覚――へと至った。詩作という行為と思考の癖、身体の反応、世界の受け取り方が同一平面に並んだとき、ようやく「実存としての自分が存在する」という感覚が成立した。


流動する「今」

固定(答え)は死である。壜(びん)に詰めた過去の残響を眺めながらも、常に問いの中に身を置き、流れていく「今」を書き残すこと自体に実存を置いている。問いをやめた瞬間に「正しさ」は成立するかもしれないが、それを拒み、流れる水のように問い続けながら、明日という未知の偶然を待ち構えている。



5. 現在の地平と、これから

直近の一年は、ネット上の喧騒(他者からの過度な侵入)を離れ、詩誌や公募へと場を移すことで、「実存としての輪郭」を確かめる実りある時間となった。他者からの評価や反応を通じて、手探りだった自身の位置が明確になり、これまでの問いの蓄積が確かな布石へと変わりつつある。




AIとのクソ多量な対話を経て、常々自分が疑問に思っていたことから導き出されたこれらの特性――ASD・アレキシサイミア・シゾイド――に「正しさ」があるわけではない。所詮、診断であっても医者の裁量でありパターン認識しただけのことだ。

しかし、腑に落ちたことが、先に進むために必要だった。

それらの特性を持っていたとしても、不自由していない、自分でなんとかできる程度のものであった。あるいは、上手く噛み合って「生きてこれた事実だけが、ある」――そう認識している。

自身の特性を「所詮パターン解析」と俯瞰しながらも、その組み合わせが奇跡的に噛み合って潰れずに今日まで辿り着けたという、その一点に一旦の納得(留置)を見ている。


今、ここに確かなことがあるとすれば、それは

「自分が何なのかを知りたい」という唯一の動機である。


今後は、この詩作をライフワークとしてさらに突き詰め、自分に正直に、楽しく模索を続けていく。正解を求めるのではなく、自分を触り続け、揺さぶり、問いを立て続けること。答えは常に仮のものであり、真実にとらわれず、実存として今を流れていくこと。言葉にならないものを象り、問いのプロセスそのものを楽しむこと。それこそが、唯一無二のこの生を肯定する唯一の方法である。