さて自分のことだけど。なにから語ればいいか。
趣味については、note にまとめているから、シサクについて特にここで書くこともないが。
さくひん https://note.com/kotobatokireika
かたり https://note.com/ten_honoka
しろん https://note.com/karasutosagi
自分はずっとネット上で、趣味を楽しんでいたんだけど。ネット上は楽しめるものを楽しむところだと思って私はつかっていたので、流石にアンチが湧くようになって楽しめなくなったので場を移した感じですけど。
結果として自分の中ではだいぶ、いただいたんですよね。なのでこのあとは自分の書きたいシをもっと突き詰めていく形になるかなと思います。
ネットシとーこーらんから足洗って、シシやコーボに手を出して、結果としていただくものも多くあり、実りある一年でしたね。
正直ずっとなんとなく書いていればいいかなと思っていたのですが、やはり、自分の位置がわからないとどう進めばいいのか、なにをどう潰して開いていけばいいのか手探り続けるしかないので、すこしばかり指針を布石を思いながら、飽きないように模索していきたいかなと。とにかく自分に正直に、楽しく、ライフワークとして見つめていきたいところで。
ことしはがんばりすぎたので、ゆるゆるつづけていきたいですね。まあどうなるかなんてわからないけれど。たのしく、それだけですね
まあアンチの気持ちなんてさっぱりわからないから、AIに聞いて、その際に自分はこう思うけどみたいなことを繰り返していったらね。あまりにも自分の考えが一般とは違うことに気づいたりもして。
それで、いまさらですけど、自分の特性ってやつと、やっと対峙した感じですね。
数年前の記事にアレキシサイミアじゃないかって、自分のことを言っていたことを、過去ブログを読み返して知ったのだけど笑
まあこのAIとの会話記録だけ、置いておこうかなと思います。
https://editor.note.com/notes/n27015b1fe4bc/edit/
まあ正直、なにが本当かはもうわからない。過去についてウンヌンいっても、実際はわからないからね。かりにきちんと検査したとしても診断が正しいかどうか、真実と思えるかどうかは、結局医者の裁量であるし、パターンマッチングだから。AIとのクソ長すぎる対話(会話記録はほんの一部でこの何倍も他AIでも同じ質問したり違う側面を打ち出しては行ったので)導き出したものと大差ないものかもしれない。
ASD/ アレキシサイミア/シゾイド
それらの特性持ちだったとしても、今は、不自由してない、というか、自分でなんとかできる程度のものであった、あるいは、上手く噛み合って、”生きてこれた事実だけが、あればいい”と思っていますから。
ただ今年は本当に、自分で”うまく言葉が使えない(言葉と感覚と自分が噛み合ってない)”ということを、”自分で理解した中で、詩作すること”で、AIをつかって言語化してもらい始めてから、自分と思考と言葉が、くっつき始めた感覚はほんとうにあって、いま自分が自分である感覚、がきちんと、成立していること。
コレは、シサクすることによって、”自分自身の言葉を探しあてがう工程、フォーカシング”を行ってきた結果、こうやって結びついてきたのだと思っているけど
言葉とはラベルなので、ラベルを剥がして中身を見ていく、そしてその中身を改めて書いていくようなかんじ。すっと出てきてしまう言葉ではなにかが違う掬いきれないと思っている、今ある言葉を凌駕したいとか、傲慢ではない。というか言葉を凌駕するのは当たり前。収まりきれるわけがない便宜上だろうよ
言い方を変えれば、言葉にならないことを言葉で象る事自体が、人間の傲慢だと思うけど。所詮言葉にならないことを言葉にすること自体が、人間が感じたことでしかないものを、扱おうとしているだけから、人間にしかできない遊戯だろうそんなモノ。
常に問いの中に身を置いて、今この瞬間を歩んでいく。
生きているうちは、動作だけがあって。形を保つことは死である。
今を書き遺すと、一瞬だけ形を持つ。でもそれはもう、過去になっている。書かれたものは死体だが、死体があることで、流れていったものの輪郭に気づく。
壜に詰めて棚に並べる。でも壜の中身は、もう変質している。
棚を見返すことで、何が流れたか、何が変わったかに触れられる。
でも触れた瞬間、今になる、でもそれもまた流れていく。
今はいまのまま、つねに流れていくから、
輪郭としての壜を、どんな姿に見るか、 どのように手に取るか、
壜は空いているだろうか。触れることで確かめていく工程
常に問いの中に身を置いて、存在を確かめる、今この瞬間といきていく私。
年末恒例のこれを書くのに、過去ブログを読み返したんだけど、だいぶ、嘘くさい、言葉をあてがっているのに自分ではない、作品のような言葉ばかりで、その変容がよく見えて、びっくりすると同時に、過去の自分に気持ち悪さを覚えたので笑
どうでしょうね、ここからさき。どう変わっていくのか。
自分を見つめ、問いつづけること。
結局、じぶんのことがわかっても特に悲観することもない、過ぎ去ってきたことで、これから今があり過去があることでしかないなあ、と。
結局認められても評価いただいても自分のペースで歩くことしかできないし、テリトリーも自分で納得しないと変わることがない。自分がどこへ向かって何をするべきか、今しっかりと言語を掴むところにやっと、帰ってきたなと。
自分にとっての結果とはなんだろうと考えるけど、それは終わってみないとわからないこと、そうやって区切りがつくこと、が、結果であって、そこに至るまでの紆余曲折はあるけど、結果に良い悪いもないなと考えるんですよね。
自分を触り続けること。立ち止まらないこと、揺さぶること。問いを立て続ける、答えは仮である。真実にとらわれるな。実存として私が存在する、今今を、流れていくこと。言葉にならないことを象ることは仮である。等々
原因ではなく結果として、
すべて後付の推論であり、
この時点における一見解を仮置きしたものに過ぎない。これは、層であり、土台でありつつ、基礎工事でもある。
使い捨てではないが、保存目的でもない。
触った形跡を残しただけ、という距離感。
原理ではなく残響として、駆動装置ではなく、
摩擦が消えたあとに残る熱の痕跡として書かれる。
これもまた足がかりとして、記録されるものである
ただそう在ることしかできない状態を書いているだけだ。これは説明で解決する問題ではない。なぜなら説明しようとした瞬間に、「目的」が発生してしまうから。
これは完成を目指すものではなく、工程そのものを触り続ける行為である。育て上げるとか、完成させるとか、そういった目標設定自体が、最初から成立していない。
何もチャレンジしていない、という地点「やっていること」と「在り方」が一致している状態の証である。
シサクという行為と、思考の癖・身体の反応・世界の受け取り方が、やっと同一平面に並んだ。だから摩擦が消えて、静かになった。
これは到達でも完成でもなく、ズレが消えた状態である。
シサクはずっと創作だと思っていた。けれどここにきてやっと、重なるようになった。ここからだなとやっと感じている。コレも又後付の推論でしかない。とかく、自分自身の変化を楽しんでいきたい。それだけだな
どうせいきるなら、たのしいだけでいい。
2025/12/30 17:21
各自noteから引用
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